【コラム】社会を変えた、働く女性の偉人たち
『偉人』と言えば、どんな人を思い浮かべるでしょうか?
エジソンやアインシュタイン、ダーウィンにナポレオン…。
たくさんの偉人がいますが、広く知られている偉人が男性ばかりであることに、疑問を持ったことはありませんか?
義務教育の中でも、女性の偉人について触れられることはほとんどありません。
つい最近まで、日本の紙幣に描かれていた偉人も男性ばかりでした。
ですが、歴史の中では多くの女性たちが、社会を変える取り組みや働きかけを行ってきました。
今回は、そんな『社会を変えた、働く女性の偉人』を紹介致します。
朝ドラヒロインのモデルにも!広岡浅子(実業家、教育者)
1849年10月18日〜1919年1月14日
広岡浅子の名前にピンとこない…という人も、「あさが来た」というドラマのタイトルは、聞いたことがあるのではないでしょうか。
2015年下半期に放送された連続テレビ小説「あさが来た」(NHK)のヒロインは、この広岡浅子がモデルになっています。
広岡浅子は銀行や企業の設立、さらには女子教育の普及にも尽力した、明治を代表する女性実業家(教育者)です。
実家で「女がするべきではない」と学問を禁じられるも、結婚後、家業「加島屋」のピンチを救うため独学で勉強を始めた浅子。
夫の信五郎も、そんな浅子を持ち前の大らかな気質でしっかりサポートしていました。
加島屋を建て直した後も、炭鉱の買収・開発を行い、加島銀行を設立。
大同生命の創業にも参画し、加島屋を大阪の有力財閥へと導きました。
夫の死後は事業を娘婿に譲り、日本女子大学を設立し、女子教育に尽力。
日本において女性が表舞台に出ることがなかった時代に、大きく活躍した女性の一人です。
ぬいぐるみのパイオニア、マルガレーテ・シュタイフ(人形メーカー創業者)
1847年7月24日〜1909年5月9日
1847年、ドイツに生まれた女性、マルガレーテ・シュタイフ。
彼女は1才半で骨髄性小児麻痺を患い、両足と右手が不自由となるハンデを負います。
車椅子での生活を余儀なくされても、マルガレーテの両親は彼女を他のきょうだいたちと平等に、分け隔てなく接しました。
洋裁学校に入学したマルガレーテは裁縫の才能を開花させ、二人の姉とオープンした洋裁店も順調。
姉たちが嫁いだ後は、周囲の薦めもあり自分の会社を設立しました。
そんな中、ある日マルガレーテは布と詰め物で、象を模したものを作ります。
子どもにはおもちゃとして、大人の女性には針刺し(ピンクッション)として提供すると大ヒット。
これが、世界で最初の「ぬいぐるみ」と言われています。
のちに甥のリチャードが熊を模した「テディベア」を考案し、大ヒット。シュタイフ社の人気を不動のものにします。
マルガレーテは19世紀では珍しく、ハンデがある人や女性を従業員として積極的に雇用し、開かれた会社を作った経営者でした。
今で言うダイバーシティをいち早く体現していたと言えます。
ハンデを持ちながらも、「自分にできること」にフォーカスしていた、前向きなマルガレーテ。
そして彼女は、どんな時も周囲への気配りも忘れませんでした。
人として、経営者として、時代を超えて愛される女性偉人の一人です。
「ハンサムな生き方」新島八重(教育者、看護師)
1845年12月1日〜1932年6月14日
同志社創立者、新島襄の妻として知られる新島八重ですが、実は彼女自身も大きな功績を残した人物です。
同志社の創立には様々な助言で夫をサポート。
夫の死後は、日本赤十字社に正社員として入社します。
日露戦争では大阪の陸軍予備病院で2か月間篤志看護婦として従軍し、その功績によって勲六等宝冠章が授与されました。
皇族以外の女性で勲章を受けた、初めての女性となりました。
自身の活躍により、看護師(当時は看護婦)の地位向上にも努めた八重。
夫を立てることが美徳とされた当時、気の強い八重をよく思わない声もありましたが、新島夫婦はとても仲が良かったといいます。
そんな八重のことをを夫は「彼女の生き方はハンサムなのです」と、友人の手紙に書いたそうです。
お互いに支え合い、良いパートナーであったことがうかがえるエピソードですね。
世界最初の女性医師、エリザベス・ブラックウェル(医師)
1821年2月3日〜1910年5月19日
エリザベス・ブラックウェルはイギリス出身。
アメリカ合衆国で医学校を卒業した最初の女性で、イギリスで公的に医師登録された最初の女性でもあります。
エリザベスの一家は男女差別や奴隷制度に反対し、平等な世の中を望んでいました。
一家でアメリカに移住しますが、事業を立ち上げてすぐに父が逝去。
やがてエリザベスは医師を志すようになりました。
ニューヨークの医科大学を主席で卒業し、28歳にして世界初の女性医師として登録されます。
しかし研修のためフランス・パリに渡るも、許されたのは医師ではなく助産師としての訓練のみでした。
当時の社会は男尊女卑の意識が強く、女性であるというだけで、医師免許があっても医師として働くことは困難です。
加えて、右目の視力を失ったエリザベス。夢であった外科医の道は閉ざされてしまいます。
しかしエリザベスは諦めませんでした。
1857年にはニューヨークで妹と教え子と3人で、「貧困女性と子どものための診療所」を開設。
女性医師の数を増やす…つまり女性医師を育てるという新たな目標もできました。
やがて彼女は親友のナイチンゲールとともに、女子医学校を設立します。
厚生労働省の「医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」によると、医師数311,205人のうち、女性は63,504人。
総数の20.4%を占めます。(2014年、厚生労働省調べ)
29歳以下では34.8%と3割を超えており、日本における女性医師の割合は年々増加傾向にあります。
今でこそ、当たり前になっている女性医師の存在。
エリザベス・ブラックウェルの功績は、今日の医療の世界に大きなインパクトを与えたと言えます。
参考:エピロギ 第2回 世界で初めて“医師”と呼ばれた女性 エリザベス・ブラックウェル
伝説の女性飛行士、アメリア・イアハート(パイロット)
1897年7月24日〜1937年7月2日(遭難した日)
ソーシャルワーカーとして働いていたアメリア・イアハート。
仕事中に受けた1本の電話が、彼女の運命を大きく変えます。
「大西洋を飛びたいと思いますか?」
のちに夫となる出版社勤務のジョージ・パットナムでした。
元々飛行訓練を受けていた彼女は、エンジニアたちとチームに参加。次々と飛行記録を樹立します。
1932年には世界で初めて、女性単独での大西洋横断飛行に成功しました。
アメリア・イアハートはこんな言葉を、生前に残しています。
現代のビジネスにも通じる、決断力と実行力が大切、ということですね。
また、近年のマーケティング用語に、「アメリア・イアハート効果」というものがあります。
ナンバーワンでないものでも、切り口を変えればナンバーワンになる、というものです。
実際、アメリアと同じような功績を残したパイロットは何人かいました。
しかし、アメリアがこれほどまでに注目されたのは、彼女が女性だったためです。
同じような記録を持っていても、女性という切り口では彼女が注目度ナンバーワンだったということから、この用語が生まれました。
アメリアは自身の体験から女性の地位向上のために熱心な活動を行い、ゾンタクラブ(ゾンタ・インターナショナル=女性の地位向上を目的とする国際的サービス組織)の主要メンバーとして活躍していました。
ゾンタでは、今でも彼女の名前を冠した奨学金制度(大学院課程で航空関連の科学や技術を学ぶ女性が対象)が運営されています。
まとめ〜女性の偉人はとても多い!〜
このように、近代の歴史に大きく貢献した女性の偉人は多くいますが、意外にも知られていないのが事実です。
しかし、どの女性にも共通しているのが、確固たる意志を持ち、自分の使命に取り組んでいたということ。
歴史上有名な女性でも、「●●氏の妻」という形で紹介されるなど、パートナーありきの「内助の功」として取り上げられる人物がほとんどでした。
もちろん、夫を支える妻の存在も非常に重要ですが、そればかりにとらわれなくて良いのです。
女性主体で活躍することに、ためらいを持つ必要はありません。
ご紹介した女性偉人たちは、現代の社会でキャリアを重ねたい女性たちに、きっと勇気をくれるはずです。
少ないながらも文献は出ているので、気になった偉人がいたら、ぜひ詳しく調べてみてはいかがでしょうか。
「最も難しいのは『行動すること』を決めること、あとは執念深くやるだけ」